みーた、ヒモになりたい

ちょっぴりノスタルジックな現役大学生の世界観

週末に読みたいおすすめkindle本 【第1回】

木曜日の夜。平日も折り返し、一週間で一番だれる日と思われるこの木曜日を乗り切り、明日仕事や学校に行けばあとはもう楽園の土日が待っているのだ。

 

意外にも、金曜日の魔物を倒して乗り切るのはそんなに簡単じゃないというのは知られていない。週末休むためにタスクを早く終わらせて帰ろうとしても、上司から次から次へと新たなタスクを放り込まれるのが悲しいところだ。幾度となくこの非情な行為が行われてきただろう。つらい経験の蓄積により金曜日という日は体に重くのしかかり、朝からそんなことを考えれば午前さえもスタミナ切れで憂鬱になっている人も多いと思う。土日に楽しみがあればまだ踏ん張って頑張れるかもしれないということを考慮すれば、やはりこの自己啓発サイトである、「みーた、ひもになりたい」サイト主、みーたが人肌脱ぐしかあるまい。大船に乗ったつもりで任せてほしい。そこで、週末に読みたいお勧めkindle本をご紹介したい。

 

なぜkindle本かというと、一般的に紙の本よりも価格が安い、持ち運びやすいから急にある特定の本を読みたくなってもどこにいても読める、という利点が大きいからである。kindle版だけどkindle持ってないって人は金曜仕事終わりに本屋さんに行って手に取ってみてください。

 

・ 君の膵臓をたべたい

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

君の膵臓をたべたい (双葉文庫)

 

ある日、高校生の僕は病院で一冊の文庫本を拾う。タイトルは「共病文庫」。それは、クラスメイトである山内桜良が密かに綴っていた日記帳だった。そこには、彼女の余命が膵臓の病気により、もういくばくもないと書かれていて――。

 

恋愛小説としては王道と呼べるもの。しかし最後まで読んでいくと展開の美しさに心奪われる。どんなに重い病気を患っていても、どんなに平凡な人間でも明日という価値は同じなのだ。この本は本当の意味で日々の大切さについて教えてくれる作品だった。

 

 

 ・妻にささげた1778話

妻に捧げた1778話(新潮新書)

妻に捧げた1778話(新潮新書)

  • 作者: 眉村卓
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2010/06/11
  • メディア: Kindle
 

余命は一年、そう宣告された妻のために、小説家である夫は、とても不可能と思われる約束をした。しかし、夫はその言葉通り、毎日一篇のお話を書き続けた。五年間頑張った妻が亡くなった日の最後の原稿、最後の行に夫は書いた──「また一緒に暮らしましょう」。妻のために書かれた1778篇から19篇を選び、妻の闘病生活と夫婦の長かった結婚生活を振り返るエッセイを合わせたちょっと変わった愛妻物語。 

この本はこの間やっていたアメトーークの「本屋で読書芸人」で紹介されていたものだ。確実に死に向かっていく妻、そしてその傍に寄り添う夫。毎日短い話を書いて妻に読んでもらうことが小説家の夫に出来ることだ。1778話目、これは妻が亡くなった当日の話だ。題は「最終回」。この本に関しては多くを語ることは出来ない。ぜひ読んでもらいたい。

 

・文句の付けようがないラブコメ

文句の付けようがないラブコメ (ダッシュエックス文庫DIGITAL)

文句の付けようがないラブコメ (ダッシュエックス文庫DIGITAL)

 

お前を救い出す。世界が幾度終わろうとも。 "千年を生きる神"神鳴沢セカイは、白髪赤眼の美少女。世間知らずで尊大で、見た目は幼いのに酒と葉巻をたしなみ、一日中お屋敷で本を読んで過ごしている。 彼女の"生贄"として捧げられた高校生・桐島ユウキ。『生贄になる代わりに何でも言うことを聞いてやろう』と言われた彼はこう願い出た―― 「神鳴沢セカイさん。俺と結婚してください」。 そして始まるふたりの生活だが――穏やかで他愛のない日々は、やがて世界が抱える恐るべき秘密によって狂い始めていく。

 天才かと思った。それほど好きなライトノベルAmazonの評価はそれほど良くはないが、1巻を読んでこれほど次の巻が読みたくなるような本はない。衝撃のラストで、どんでん返しからの疾走感。たまらなく好きだ。

 

今回紹介したのは3冊。毎週木曜日には「週末に読みたいおすすめkindle本」として色々紹介していきたいと思う。本を楽しみに金曜日を乗り切ってほしい。

本を読んで週末が潰れたなんて、とても素敵な話だと思うわ。

寝よう寝ようと思うと逆に寝れなくなる話

意識すると逆に寝れなくなる。気付いたら夜中の3時だ。

 

最近眠りが浅い。そんな気がしてならない。23時近くにベッドに入っても結局寝付けないし、それが深夜1時くらいまで続けば次の日がとにかく眠くてもう何も手につかなかったりする。

 

なんとなく原因は分かってる。「寝る直前までゲームしてるせい」。いや、なんとなくじゃない、明らかにこれが原因なのだ。大体寝る3時間前くらいからずっとPCに向かって指を動かし続けている。ゲーム中は瞼を一回も閉じていないんじゃないかと思うくらい目が乾燥する。体に悪いことばかりだ。一応ネットでも軽く調べたので軽く抜粋してみる。

PCやスマホからはブルーライトと呼ばれる光が出ていて、これは朝日にも含まれている光だ。朝日は睡眠ホルモンと言われる「メラトニン」の分泌を抑える効果があり、脳が目覚めてしまう状態になってしまう可能性がある。

 なるほど分かりやすい。google先生の検索で解決できないものはないのだ。電子の海から掬われたエッセンス達は、検索した人間が求めた回答を的確に示してくれる。流石google先生、天才だ。

 

取り敢えず分かったこととしては、寝る前のPC、スマホ画面の凝視は目に良くないだけでなく脳にも良い影響は与えていないということだ。当然、少し考えたら分かることだ。それでも僕はゲームをやめない。やめられないのだ。このことについては他の記事で熱く深く語っているので、そちらを参照してほしい。

lrf-hss.hatenablog.com

 寝よう寝ようと思うと逆に寝れなくなる原因として、ゲームをやめるという解決策はもう諦めたとすると、早く寝ることは不可能になった。そう、不可能なのだ。ゲームは中毒。彼女から「ねぇ、まだ寝ないで。まだおしゃべりしようよ...」なんて可愛い声で誘われたら断れる男などいない。それと一緒なのだ。ゲームが離してくれない。「仕方ないなぁ」なんて彼氏面してもう1ゲームもう1ゲームとやっていくといつの間にか朝になってしまう。もし毎夜そうなってしまうなら、早く寝ることではなくてベッドに着いた時にすぐ寝れるような何か方法を考える必要がある。昔友達に聞いたことがある。

「頭の先から順番にスイッチを切っていくみたいに力を抜いていくとリラックスしていつの間にか寝てるよ」。絶対嘘だ、信じられない。この話を聞いた時、どうせ友達の思い込みに違いないと思ったけれど、一応聞いた手前実践した方が良いと思ってやってみた。

この日の夜12時、ベッドに入った。今日は寝れないと思った。なんとなくそんな気がした。こんな夜、まずやることとしてはやはり「羊が1匹、羊が2匹、羊が3匹...」。定番だ。もちろん寝れない。これで寝れる人は「寝ようと思うと逆に寝れなくなるんだよね」なんて言わないし、何度も何度も寝返りをうったりしないし、眠気を誘うために自分でむにゃむにゃとか言わないのだ。恥ずかしい。その後おとなしく仰向けになって言われた通り頭の上から力を抜いていった。頭から始まり目、首、肩と流れていくようにスイッチを切っていく。最後の足のつま先まで力を抜いていった時確かに体が軽くなった気がした。

「寝れない」。悲しいことに足のつま先までいっても眠気は全く来ないのだ。それどころか、力を抜く前に一回全身に力を入れたせいで体が温まっていた。完全に運動前のウォームアップだ。
実はこの方法を聞いた時、色々思うことはあったけど案外期待していた自分がいた。寝れない状態から脱却するための方法があるならベッドでぐだぐだする時間を睡眠に充てられるし、それで次の日のパフォーマンスも改善するだろう。日頃から睡眠不足に悩まされる身としては藁にもすがる思いなのだ。(ゲームをやめろという話である。)

 

頭のてっぺんから足のつま先までじんわりとしてきたところで、寝ることを諦め、なんとなく明日のことを考えるようになった。明日は寒くないといいな。雪が降っていなければいいな。朝ごはんは何にしようかな。明日は...。気付いたら7時半の目覚ましが鳴っていた。寝ていたのだ。

朝起きた時、頭はすっきりしていた。こんなに良い目覚めは最近味わったことが無かった。眠気から覚醒していく時のちょっとした余韻さえも感じられないほど爽快だった。気持ちが良いほどの朝を迎えられた喜びは何にも変えられないものだと再認識した。

多分今日も僕は寝れないだろう。寝よう寝ようと焦っている姿が目に浮かぶし、寝返りを打っては寝れない自分に苛立ちを覚えるかもしれない。それでも僕は、翌日の僕のために、頭のてっぺんから順番に体の力を抜いていくのだ。

道民の「雪が降っても傘はささない」が腹立つという話

「雪降ってるだけなのになに傘さしてんのw」。ムカつく顔で道民感出してくる奴。

 

11月中旬、札幌では豪雪に見舞われた。直前まで暖かい日が続いただけに、雪に驚いた人は多かったと思う。朝起きてカーテンを開けて大量の雪が舞っているのを見て、静かにカーテンを閉めた。ゆっくりとベッドに戻って毛布を掛けた。7時半の目覚ましに起きれた自分自身を褒めながら、いもむしのように丸まっていく。その後起きたのは10時半。11時に研究室集合の約束があったのを思い出した。そのまま3度寝に向かった。全てを諦めた男の顔は、仏のようだった。

 

3度寝からの目覚めを迎えた時、この部屋はそれはもう言葉に表せないくらい激寒だった。家の中に居ても暖房をつけなければ凍え死ぬんじゃないかとさえ思った。ベッドから立ち上がってもう一回カーテンを開けて、豪雪が夢じゃないことを知った。絶望した。研究室は休んだ。風邪を引いたことにした。

 

何日か経って、豪雪とまでは言わないけれどそこそこの雪が降る日は続いた。「雪降ってるけど傘なんて持たないからw」。昼休みに工学部の食堂に行ったらこんな会話を聞いた。工学部の食堂には大抵、4人組のイキリオタクの典型みたいな人達が集団でご飯を食べている。何グループも。これは嘘じゃない、本当に何人もそんな人達がいる。怖い。その時は4人組の中に1人だけ声が人一倍大きい奴がいた。近くに座った自分の耳に毎回入ってくる言葉はテストの点数だったり女の人の話だったりだったが、毎回声が大きい奴が会話をリードしていた。マウントを取って悦に浸る奴はどこにでもいるのだ。そんな奴がこれを言ったのを聞いた時の自分の顔は、鬼のようだった。

 

「雪が降ってても傘はささない」。いや、させよ。そう思ってしまった。道民は降ってくるのが雨なのか雪なのかの違いでさすかささないか決めてるのか。雪を頭の上に乗せながら、服は雪でもっさりになりながら、「札幌の雪はさらさらだから大丈夫」と言う。いったい何が大丈夫なのか。さらさらの雪をはらった後の服の湿り気だったり、その時に付く、手の間に入った雪がそんなに好きじゃない。確かに、傘をさしてない時に持っているのが面倒というのは分かる。僕もずっと思っていた。でも雪が降る前、小型の折りたたみ傘を買ってから、雪の時に傘をささない選択肢は自分には絶対なかった。傘をさしても小さいから人の迷惑にならないし、使ってない時は毎回バックに入れられて、急に降る雪にも対応出来る。折りたたみ傘を発明した人は天才だ。

 

服に付く雪は出来るだけ少ない方が良いし、髪についてワックスを溶かしていく感じがどうしても苦手だ。札幌に住んでからは、バックは雪がしみこんでいかないような素材にしたり多少は考慮しているけれども、やはり一番には雪に当たりたくないという気持ちがある。

 

雪はすぐ溶けるから大丈夫。降られても大丈夫。
全く大丈夫ではないのだ。ささなくて良い、じゃない。傘をささない必要が無い。耐える必要が無いのだ。小さいころ、雪は汚いから食べてはいけないと親に教わった。それ以来雪が服に付くことが凄くいやになった覚えがある。

 

降ってくる雪を見るのは好きだ。とても綺麗で幻想的だ。手に落ちてふっと溶けて消えていく雪の儚さに感傷的になる事もある。札幌に住み始めて1年目、雪に降られ美しく輝くこの土地を見て絵画のような美しさを知り、今年で4年目となる冬、この絵画に自分を描き込むことの大変さをようやく知る。住むところではないのだ。自然は甘くない。

 

まだまだここには住んでいくつもりだ。少なくともあと2年間。
それでも自分は、傘をさし続けるだろう。

 

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僕は掃除が出来ない

いつしか部屋が汚いと思わなくなった自分がいた。これはインテリアだ。

 

僕は掃除が出来ない。正確に言えば、取り出した物を同じところに戻さないので、日が経つにつれて机の上や床に物が散らばってしまうということだ。部屋が綺麗な状態で使い始めた最初の1、2週間はものすごく気を付けている。どこから取ったのかもちろん覚えているし、ちょっと距離がある所で使ったものでもいちいち同じ場所に帰しにくる。ほらね、出来る男でしょ。そう思ってちょっとににやけ顔をするのだ。当然、流石に僕も汚い部屋にはしたくない。

 

ところが数週間経つと、床には服がちらばり教科書が散乱、しまいには授業でもらったプリントはファイリングされることなくぐちゃぐちゃに折れて机から落ちかけている。

無理なのだ。整理整頓などやったことが無い。実家では学校に行っている間に親が勝手に部屋に入り掃除機をかけゴミ箱に広げられたビニール袋を持って行ってしまう。掃除を鍛える場所が無い。もちろん学校では掃除の時間は設けられていて決められたグループで決められた場所を雑巾がけするなり箒掛けするなり行うが、それは公共の場であって自分一人のスペースではない。自分のテリトリーを守ることに神経を注げるのはゲームの中だけなのだ。

 

僕が人の家にお邪魔するときはなるべくその人の部屋を汚くしないようにする。もし何かご飯を作って一緒に食べることになったら皿洗いや後始末などはわりと率先してやる方だ。シンクに皿を残していくのは人の部屋を乱雑にしたことと同じだ。しかしながら自分の部屋ではそうはいかない。実家では料理をしたり皿洗いをしたことはほどんどないし、本格的な部屋掃除は大晦日の時に親に強制的にさせられた。ましてやお風呂掃除、トイレ掃除、庭掃除などその他もろもろのことに関わったことがあるのは、小さいころ「〇〇掃除してくれたら〇円あげる」なんていう親の甘い言葉に騙されて無垢な僕が目を輝かせて一生懸命働いてた時くらいだ。

 

浪人時代、仙台の寮に入っていたことがあった。これが初めての自分だけの住処だった。部屋はちょっと狭かったけど、トイレと風呂があって浪人生にとってはもったいないくらい快適な場所だった。好きなロックバンドのギターリストの真似をエアでしている時も、よく聞く曲をわざと転調してかっこつけて歌ってキメている時も、携帯でエッチな動画を見てる時も、急な親フラに怯えなくても良いということが幸せだった。最高な日々だった。

それから数週間、部屋はジャングルと化した。一瞬だった。部屋の綺麗な状態と汚い状態の境目が無かった。0からカウントが始まって1の次は、何故か9だった。2が来ると思っていた僕は一人暮らしというものを舐めきっていた。甘かった。綺麗な状態とは一体どんな状態だったのか思い出せないくらい、床のフローリングは見えなかった。

 

「...地元の大学、行こっか」。親が寮に来て、僕の部屋に入った時に最初に行った一言がこれだ。今でも覚えている。地元の大学は浪人しなくたって、それこそ現役で適当に受けても受かるような私立大学ではあるが、それでも親は僕に死なない生活をしてもらうことの方が大事らしかった。それくらい汚かった。らしい。確か11~12月くらいにある3者面談で親が僕の部屋に来るまで、僕はそこで一回も本格的な掃除をせずに生活していた。その後もたまに親がやってきては掃除をしておいしいご飯を食べさせてもらっていた。悲しいことに、僕は掃除はしないのだ。させてもらえなかった。お前とやると時間かかるだろうから端っこに居てと言われてその通りにした。寝る前夜な夜なエッチな動画を見ていたベッド、かつてギターの真似に使っていた赤本、アニメオタク友達とアニメイトに行って親に内緒で買ったライトノベル。床は綺麗な木の色を見せ、本は棚にちゃんと戻され、ベッドのシーツは綺麗に張られていた。端っこの方で立って見ていた僕は自分のテリトリーが崩壊していく感覚を知った。

 

親に甘やかされた結果がこれだ。将来結婚して子供が出来たら、料理、洗濯、掃除は絶対に教えてあげたいと心に誓った。僕は出来ないので奥さんにお願いするんだけど。

 

札幌のこの部屋も、今年で4年だ。そこそこ広くて立地も良い。親に感謝だ。親孝行したくて掃除の1歩目や2歩目は一生懸命頑張っている。それでも親は毎年「掃除しに行こうか?」と聞いてくる。1度や2度じゃない。電話する度にだ。信用されていない。まるで僕が全く掃除をしていないみたいに。全く掃除が出来ないみたいに。失礼な話だ。床に置いてある服だって、部屋にあるAmazonの段ボールだって、1,2年生の時に貰って捨てきれていないプリント類だって、僕の部屋の一部だ。僕の部屋では、部屋にある全てのものがインテリアなのだ。

 

部屋が汚いなんて、言わせない。

横断歩道は白い部分だけ踏んで渡るという自分ルールがあった話

ふと生み出される自分ルール。日々の生活に面白さが加わる。

小学生の頃、横断歩道を渡る時は白い部分しか踏んじゃダメみたいな遊びがあった。どうしてそんなことやり始めたのか分からないけど、横断歩道に近づいたときそうしようと決めた日から自分の生活はこの自分ルールというものに振り回されていくのだ。

 

僕が住んでいた地域には学校に行くために一か所だけ横断歩道を通る必要があって、そこには保護者が交代制で旗振りをしていた。いつものように、親に起こされいやいや朝食を取って時間ぎりぎりに家を出る。小学生は近くの家同士でそれぞれ班を作って集団登校をする文化がこの地域にはあった。全員集まったのを確認してから列を作って学校に向かって歩いてゆく。横断歩道に着いた時、急に鼓動が早くなった。昨日作った自分ルール、「横断歩道は白いところだけしか踏んではいけない」を急に思い出してしまった。横断歩道に着くまで、今の今まで何もいつもと変わらない生活だったのに、横断歩道を一歩進もうとすると、こけそうになってまでも無理して白い部分を踏もうとする。二歩目、白。三歩目、白。もし横断歩道の黒い部分を踏んでしまったら吸い込まれて消えてしまうんじゃないかと思うくらい、執着していた気がした。

学校に着いた時にはもうそんな自分ルールは覚えていなかったと思う。いつものように授業を受け、給食を食べ、掃除をする。習い事をしていたから、クラスメイトと放課後の遊びの約束をしたことは少ない。家が近い何人かの友達とつるんで教室を出て帰路につく。学校からの帰り道なんて、何もしなければ退屈なだけだ。だから、小石を蹴ってサッカーし始めたり、急に誰かにタッチして「お前が鬼ね」そこから急に鬼ごっこが始まったりする。落ちてる棒を拾って、「ぶーんぶーん」なんて言ってライトセーバーごっこをするのがはやった時期もあった。

意味のない遊びをしてけらけら笑うことが楽しかった。

信号を渡るとき、また朝のような感覚があった。どうしても「白を踏まなければいけない」と思った。けんけんぱの要領で黒を飛び越えて先頭を切るとみんなが同じように白い部分だけを踏んで渡る。そうなると自分ルールが他人にも広がって、ゲームに変わっていく。横断歩道を過ぎた後でも、その先に続いているタイルの特定の色だけを踏んで帰るとか、鬼ごっこをしている時でも「鬼はタイルの黒い部分は踏めない」とかいう意味の分からないルールが追加されたりした。
ある1つのルールが生み出され、そして新しい別のルールと混ざっていくという感覚を知った。

 

それ以来、小学生の間は「横断歩道は白い部分だけ踏んで渡る」という自分ルールが深く僕に根付いた。とはいっても普段は全然覚えていなくて、何故か横断歩道の近くになるとふと思い出すのだ。なんて便利な脳なんだろう。今思えば、もしかしたらこの自分ルールも自分が生み出したわけじゃなくて誰かに影響されてそれで始めたのかもしれない。そのあたりは全然覚えていないけど。

中学生になっても高校生になっても、横断歩道を見るとなんとなく大股で白い部分を踏んでいこうかな、なんて考える。このくらいの年になると実際に白い部分だけ踏んで渡ることはしないし、何色かに分かれているタイルの上を歩いているときも考えはすれど実際にすることはない。

年を取るというのは怖いことでもある。日が暮れて木の黒い陰が道をふさいでいたのを見たとしても、どうやって黒いところを踏まずに帰ろうかなとか、上手く通り抜けられた時のあのなんともいえない「やってやった」感とか、小さなことでもいちいち楽しんでいた小学生の頃の気持ちを思い出すことすらしなくなっていた。


大学生になって、札幌に住むことになった。冬を迎えて、生まれて初めて、家の中から積りに積もった大量の雪を見た。家を出て学校に向かう。まだ整備されていないところに積もったそのふんわりとした真っ白な雪を踏んでいくと、なんとなくだけど白い部分だけ踏んで歩いていた昔の自分を思い出した。雪で白も黒も分からない横断歩道に差し掛かった時には「大股で歩かなくてもセーフだな」なんて思った。積もった雪の中には歩いてきた自分の足跡がくっきりと残っていた。不思議な気持ちだった。

今でも自分ルールはある。「シャーペンは偶数回ノックする」、「右手を触ったら左手も同じように触る」、「湯船に浸かったら100数えるまで上がらない」。他人から見れば意味のないルールでも、気になってしまったらもうどうしようもない。勝手に自分ルールが生み出されていくのだ。別に無理してこのルールに従っているわけではない。なんとなく、そう、なんとなくだ。意味なんてない。守らない時があれば、そもそも作った自分ルールを覚えてない時もある。そのくらいのものだ。

 

「横断歩道は白い部分だけ踏んで渡る」なんてことはもうしないだろう。そんな自分ルールがあったことさえ、忘れてしまうのだろう。それでも、生まれてきた自分ルールに軽く振り回され、色々なことを知り遊び楽しんだ小学生の思い出は死なない。

札幌の雪を踏んであの時のことを思い出した様に。

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忘年会幹事の男の人に惚れかけた話

人を喜ばせたり、楽しませたりできる人は素敵だ。そう思った。

 

今週、他研究室との合同忘年会があった。合同で行うのは今回が初めての試みだ。こちらの先生が向こうの研究室出の方だったのもあって、参加者に声をかけるのは比較的やりやすかったそうだ。参加した人は研究室に所属している人全員ではなく、先生と繋がりのあるコースの人達が集められた。ボーリングと食べ飲み放題が忘年会の内容だと聞かされていた。

 

予定されていた忘年会の日にちは普通の平日だった。この日もいつもと変わらず大学で卒業研究の続きをするために朝7時半に起きる予定だった。いつも12時過ぎくらいまでゲームをしているので、明日もどうせ起きるのしんどそうだな、なんて思っていた。

 

朝起きて目覚ましを止めて、ベッドから降りた時、体が軽いことが分かった。いつもはベッドの上でいもむしみたいにくるまっているからシャワーを浴びに行くのにも一苦労なのに、この日は頭がすっきりしていた。風呂場まで駆け足で向かっていた。バスタオルで濡れた髪を乾かしながら歯を磨いている時、足でリズムを刻んでいた。コンタクトを入れている時、いつもなら絶対チョイスしないようなバラードの鼻歌を歌っていた。なんとなくだけど自分が思っているよりも今日の忘年会を楽しみにしていたことが分かった。「忘年会楽しいといいなぁ」。大人数で遊んで、飲んで、食べて、語り合う。最近卒業研究が忙しくてそんなこと出来なかったから、想像するだけでも気が緩んでしまう。

 

午後7時。無事実験を終え、大学のとある集合場所に集まった。一回全員で集まってから電車に乗ってボウリング場に行く予定だったらしい。雨で若干溶けた雪道を通った。乗った電車はがらがらで、くだらない話をしながらつり革にぶら下がって揺られていた。この間も当然ボーリングのイメトレは欠かしていない。前ボーリングしたのは中学生の時かな。上手く投げれる自信が全然無かったけど、あまり話したことのない他研究室の人達に恥ずかしい姿は見せたくないのだ。

 

ボーリング場に着いて、幹事がチーム分けをしますと言って、事前に作っておいたくじを皆に配っていた。書かれたものが一緒の人が同じチームになるという具合だ。書かれていたのは全てハリーポッターに準ずる単語みたいなものらしく、なんとなくなんだけどこの時点で幹事のセンスみたいなものに惹かれていた。自分なら何も考えずに間違いなく1,2,3,4で振り分けてしまうと思った。すこしだけ羨ましくなった。

 

レーンに割り当てられてボーリングが始まった。結論からいうと自分はありえんほどド下手だった。イメトレとはいったい何だったのか。腕も足も思った通りに動かなくて、ガーターを出した後に1ピンしか倒れなかったときは皆でげらげら笑った。すごく楽しかった。

 

食べ飲み放題の店では豚しゃぶしゃぶに串、1品メニューなど種類がそこそこあった。こんなおしゃれなお店で、しかも3000円いかないなんて。ここでもやはり幹事は飲みの店に詳しい男というか、さらっとお店を紹介出来る系男だと判明してしまう。格好いい。幹事として皆の前で一言乾杯の挨拶をしても、クールに決めてしまうのだ。

 

11時半、宴も酣。そろそろお開きになろうかという所で幹事が一言。「ビンゴ大会、やりませんか。実は用意してます」。なんだそれは。格好よすぎる。今日の流れ、すべてが完璧すぎる。ボーリングでひと汗かいて研究室間の仲を深め、飲みの席で多少の冗談を交えながらいじりいじられ、そして最後ビンゴをして盛り上がろうというのだ。天才なのか?

ビンゴが進み、次第に景品が無くなっていくなか、幹事が「最後の景品ですが、これは4年生もしくは修士1年だけ混ざってください」。なんだなんだと周りはざわつく。4年生である自分は該当する。持っているビンゴカードは2リーチ。幹事が引いたボールはまさかの僕をビンゴに導く最高の番号だった。

 

「おめでとう。これからはこれを使って盛り上げて」。幹事から渡されたのは今の今までビンゴで使っていたマシーン。がらがらと回して玉を取り出すやつ。次の忘年会はこのビンゴを使って楽しい会にしてほしい。とか、これからもこの合同忘年会を続けていってほしい。とか、いろんな思いがあった気がした。いや、なんとなくなんだけど多分そんなことは幹事は考えてないだろう。でも渡されたマシーンは思ったよりもちょっとだけ重く感じた。

 

今回の合同忘年会では終始幹事の参加者を楽しませたい、喜ばせたいという気持ちが凄く伝わるものだった。他研究室の方は実は先生が1人来ていたが、すごく楽しかったとおっしゃっていた。この会最初から最後までの全体を含めた忘年会。これが幹事力、いや男としての才能だと圧倒された。

 

他の人からすればいやいやこんなことで凄いとか、みたいに思うかもしれないけど、当事者からすればやはり圧倒されるものがある。素直に、こういう人になりたいと思った。憧れた。羨ましいと思った。

 

自分はこの研究室が結構気に入っている。部屋の雰囲気とか居心地が良い。だから、もし来年から入ってくる3年生の後輩達にもそう思ってもらえるならそれはすごくうれしい。今週の研究室ゼミでは自己紹介の時間も兼ねて3年生と一緒にやったらしいけど、実験の予定が入ってしまって自分は出れなかった。次に実際会ったり会話をする機会ができるのは多分この研究室全体でやる12月の忘年会の時だ。この時は3年生も呼んで、飲んで話して笑いあうのだ。毎年この忘年会は4年生が計画を立ててお店を予約することになっている。

 

その時は、貰ったビンゴマシーンを持って行こうと思う。

プレゼントを考えるのは難しいという話

クリスマスがあと1ヶ月になり世の男達は色々と考える季節になった。

愛する人を喜ばせるために、もしくは狙っている女の子とうふ~んな展開に持っていくために、男は知恵を絞って考える。集合時間はいつ頃か、どこでディナーをしようか、プレゼントは何にしようか、その後は。悩みの種は尽きない。

かくいう自分もそれに漏れておらず、今焦りながらも色々と計画を立てている最中なのだ。

 

一番の悩みの種になるであろうものといえば、やはりプレゼント選びだと思う。プレゼントの内容のことはもちろん、金額面でも悩ましいところはある。大学生になり、それ相応のものを求められる風潮に屈している手前、安すぎるものをプレゼントするのは許されないのだ。そんなものをプレゼントした暁にはTwitterで「【悲報】彼氏、クリスマスプレゼントのセンスが全くない(画像略)」なんてツイートされ、周りの人からはセンス0のヤバい男認定されてしまう。避けたい。どうしてもそれは避けたいのだ。一人の大学生としての人権はまだ放棄したくないのである。

 

 取り敢えず情報収集が大切な気がした。ネットで検索、「彼女 クリスマスプレゼント」。色々なサイトを物色しては、誰もいない部屋で「これはねーわ」、「絶対捨てられる」と泣きながら探す。大学の卒業研究に追われる自分が、なぜここでも色々なものに追われ泣きながら検索をかけプレゼント吟味をしているのか。なぜ、ここまでやろうと思うのか。理由は一つ。

 

彼女が怖いのだ。

それはもう、とてつもなく怖い。聞かれたことに対して正確な返答が出来なければグーで腹を殴られ、作っていただいた夕飯に対して彼女が喜ぶような感想を言わなければ火を噴き、部屋を焼き尽くすのだ。

 

当然冗談ではある。が、素敵で優しい彼女でも1000円行くか行かないかの貧相なプレゼントを渡された日には、流石に怒り狂って部屋にいれてくれないこと間違いなしだろう。怖い。

 

今年の定番とか流行プレゼント、よりも自分のために考えて買ってくれたものの方が嬉しいということは去年から何度も言われてはいるが、だとしても候補すら思い浮かばないのでいくつかのクリスマスプレゼント紹介のサイトの中から1つを取り上げて、そのサイトで取り上げられているすべてのプレゼントに対して彼女にふさわしいものはどれか、考察していきたい。

 

【予算別】2017人気クリスマスプレゼント。彼氏彼女が喜ぶ愛たっぷりギフト特集 | Anny アニー

 

 今回はここのサイト。検索したら上から何個かめに教示されていて、タイトルに少し惹かれた。

 

まず一つ目、一番最初に取り上げられていたプレゼントがこれ。

 

1、上質なプチコスメ

クリスマスシーズンに楽しい思い出が多く残るように、彼女をそっとサポートするクリスマスプレゼントを贈りましょう。

最初からこれだと、あとが心配になるような物だが、当然これはダメである。プレゼントする相手の肌質を知らないし、そもそも肌に合うようなものを自分で買っても、たまに合わない時がある(彼女談)という話を聞いていたのが理由。ティントリップは唇の色素沈着が起きるかもしれないとかいうの聞いたことあるし、彼女のプルプルの唇を汚すのはダメだし、ネイルとかは自分が嫌いなので買わない。というか肌質聞いてくる彼氏気持ち悪いでしょ。次。

 

2.アクセサリー

クリスマスプレゼントの定番であるアクセサリー。「自分のことを想ってプレゼントしてくれた」その気持ちに一層嬉しく感じるはずです。

絶対メルカリに売られる。最近アカウント登録したと言っていたので、自分があげたプレゼントもそろそろ本格的な仕分けをしていくかもしれない。怖い。あげられない。ピアスは耳に穴をあけてないのでダメ。イヤリングは前あげたけど多分メルカリで売られた。

 

3.お酒

クリスマスディナーのお供にもなるので、二人で幸せなひと時を楽しめるかもしれませんね。豊かなクリスマスを迎えましょう。

お酒というアイディアは浮かばなかった。これはいいかもしれない。しかしながら自分は氷結の500mlを飲みきれない下戸オタクなので多分がっかりされそう。

 

あげられないものもあったけど色々と参考になった。ありがとう、google検索。

 

ヒモになりたい男、みーたとしてはこのクリスマスはやはり彼女の機嫌をとりつつ懐にすばやく入っていくことが出来る絶好の機会。ここは絶対にものにしたいのだ。世界一可愛くて、愛している彼女に養ってもらうなんて夢のような話を実現するべく、勉学よりもヒモになる方向に最大限努力しているこの男、称賛されるべきだ。

 

相手によって当然変わってくるプレゼント。期限ぎりぎりまで、できるだけ深く考えたい。喜んでもらえたら、こっちも嬉しくなる。笑顔が見れるなら、多少の苦労なんて厭わないのだ。

 

 

プレゼントを考えるってやっぱり難しい。